探究学習とは、生徒みずからが問いをたて、その答えを主体的にみつけるために、情報収集・分析を行い、何らかのかたちで表現しようとする学習活動で、近年、国も学校教育現場で積極的に推進して導入しています。小、中、高のそれぞれの学年によって時間数は異なっていますが、総合的な学習(探究)時間で年間50から70時間程度設定されています。
日本人は、主体性や創造力で劣っているのではないかとよく言われますし、探究学習を行うことは、非常に良いことだと思います。しかしながら、現在、探究学習は学校の教育現場でほとんど機能していないように思います。生徒達にとって、探究学習が行われているか行われていないかは、あまりわからない状態ではないかと思います。
優れた探究学習を行うことを阻害している明らかな理由が二つあります。
一つ目は、一クラスの生徒数が40名弱ではむずかしいでしょう。ある事柄やテーマについて、大人数では、質疑・応答や議論などによって、学習を深くすることは難しいです。
二つ目は、優れた探究学習を行える技量がともなわない先生達も多いのではないでしょうか。
探究学習は、現生徒達のお父様、お母様方が経験された20年近く前に行われていたゆとり教育時代の総合学習と同じようなものです。その当時も、総合学習はほとんど機能していませんでした。現在の探究学習の違う点は、それぞれの教科の中で探究的なことをすれば、探究学習をしたことにできるようです。
最近の例を挙げたいと思います。近隣のある中学校のある学年で、数学の授業で、授業形式で新しい単元を教えるのではなく、生徒それぞれが、教科書を読んで理解して、学校のワークの問題を進めていく方法をとりました。主体的に自ら考えてすすめるので、探究学習になるのでしょう。その先生も積極的に探究学習を行っていることになるので、学校や教育委員会から評価されるかもしれません。しかしながら、その学年の定期テストの数学は悲惨なものでした。平均点が40点弱しかありませんでした。そのテスト後、とりあえず普通の授業形式にもどしたようです。
もう一つの例は、私が高校時代に経験したことです。今回、探究学習のブログを書くにあたって、思い出したことです。高1の地理で、夏休みの課題で、数人のグループをつくって、先生がリストアップした数十冊の本から選んで、その本を読み、夏休み明けに発表することが課せられました。私を含む3人は、「南アフリカ共和国の内幕」というタイトルの本を選びました。南アの白人によるアパルトヘイト政策による、当時行われていた人種差別を超えていた人種隔離の現状などが書かれていた本でした。現在の南アではすべての差別が撤廃され土着の黒人政権も誕生し、サッカーのワールドカップも開催され、平和な国になっています。当時、その本を読んだ仲間たちは、衝撃を受けました。クラスでのみんなの前での発表も、自分達なりに大変良いものにできたと覚えています。質疑、応答までしたかは覚えていませんが、地理の先生から感想を頂いたことは覚えています。このような授業が、探究学習の理想のように思います。
結局、探究学習と言っても、かたちだけで全く良くないものもあれば、探究学習と言わなくても、とてもすばらしいものもありさまざまで、先生次第だと思います。いつもそうなんですが、たとえば、国が「小学校の英語教育を本格的に始める」とか「プログラミング教育を始める」とか言い出して、始めるのですが全く教育現場の体制が整っていません。一番わかりやすい事例をあげますと、高校の英語の授業は「英語で行うことを基本とする」と学習指導要領で定められていますが、ほとんどの学校は日本語で英語を教えています。英語をほぼ話せる先生でも、訓練しないとなかなか日本人に英語を英語で上手に教えることには無理があります。教育官僚達は、探究学習的に少し考えれば、それらの理想の教育をするためには、まず何をやらなければならないか、わかるはずです。あるいは、わかっていて強引に押し付けてくるのかは定かではありません。また、国の予算的にも余裕がないですし、欧米先進国並みに一クラスの人数を少なくすることもできません。
日本人は、勤勉で優秀だと思うのですが、教育行政がおかしいので、創造力、決断力、実行力を必要とする世界のAIを中心とするテクノロジーからますます取り残されつつあります。
今回は、批判的なことを多く書いてしまいましたが、現実として格差社会になってきてしまっています。だから、教育は重要ですし、個人、個人が勝ち抜くしかありません。生徒のみなさん、頑張りましょう。
